Hebidas ヘビダス  ボールパイソン大百科

P1  パイソンの歴史
 ボールパイソンはヨーロッパ人が注目した最初のパイソン種の一つである。ボールパイソンに関する話がヨーロッパの文献のなかに登場するのは、17世紀後半から18世紀初頭にかけてである。その頃、ヨーロッパからアフリカ東西海岸への貿易航路が確立された。それと同時に、長い航海に出かけた船乗りたちが世界各地から持ち帰ったさまざまな自然物や工芸品を収集するのが、ヨーロッパの知識階級のあいだで流行するようになった。こうしたコレクションは「珍品の棚」のなかで陳列され、個人的な博物館として各家庭のなかで保管されることが多かった。こうした新奇な動物・植物・工芸品を求める傾向が、他の世界を知ろうとするヨーロッパ人の博物学に対する興味や知識に大きな役割を果たした。

 アルバータス・シーバ(1665生-1736没)は現在のドイツ北西部で商人兼薬剤師を務めていた。シーバは熱烈な珍品コレクターの一人であり、世界各地の航海から戻ってきた船乗りから買いつけていた。シーバはその生涯のあいだに二つの巨大なコレクションを作り出した。一つは1717年にピョートル大帝に丸ごと売却されて、ロシア国立博物館の土台となった。もう一つのコレクションはシーバの死から14年後にオークションにかけられ、その標本類はヨーロッパ各地の博物館に散らばってしまった。

 シーバはそのコレクションを後世に残すために、その多くをイラストにして4冊の本にまとめあげた。この本は1冊の厚さが51cm、重さが9kgという文字通りの大作であり、その本のタイトルも内容にふさわしく、『Locupletissimi Rerum Naturalium Thesauri Accurata Descriptio, et Iconibus Artificiosissimus Expressio, per Universam Physices Historium: Opus, cui in hoc Rerum Genere, Nullum par Exstitit』という非常に重々しいものだった。この本は『シーバのシソーラス(類語辞典)』と呼ばれることが多い。同書の文章は平凡な出来だと見なされているが、449枚の大きな図版はすばらしいもので、多数の爬虫類や両生類を含む数千種の動物のイラストが描かれている。第1巻(1734年)と第2巻(1735年)にボールパイソンの絵が収録されており、シーバはヨーロッパにおける初めてのボールパイソン・コレクターの一人だと言ってもいいだろう。また、同書には、ヨーロッパで出版された初めてのインディアン・パイソン、アミメ・パイソン、アフリカン・パイソンのイラストも含まれている(訳注:『Seba's Snakes and Lizards: 240 Illustrations』で、そのイラストを見ることができる)。

 同じ頃、スウェーデンの植物学者カール・リネアス(1707生-1778没)は、現在の分類学で使用されている二項式の命名法を確立した。リネアスは世界中の多くの動植物を分類した『自然体系』という本を計12版出版し(1735-1766年)、生物学の世界に名を残した。『自然体系』第10版(1758年)は後に分類学者によって採用され、現代の動物分類の基礎となった。

 『自然体系』第10版のなかで、リネアスはColuber Molurus(現在のインディアン・パイソン)を命名・解説している。これは学術名を与えられた最初のパイソンである。現在でも同様の手続きがおこなわれているが、リネアスは“ホロタイプ(正基準標本)”と呼ばれる一つの標本にもとづいて種を決定している。ホロタイプは種の“名称保有体”と呼ばれることもある。リネアスは種の地域特性を「Indiis」と表記している。地域特性とはホロタイプが生まれ育った場所のことである。Python [Coluber] molurusのホロタイプ標本は現在でも残っており、スウェーデン・ストックホルムにある博物館「Naturhistoriska Rijksmuseet」で展示されている。

 シーバの『シソーラス』は爬虫類分類学の初期において重要な役割を果たした。シーバは少数の例外を除き、『シソーラス』で描かれた生物のイラストに名前や棲息地域を明記していなかった。こうしたことが、その生物に対する謎と興味を増やし、後世の学者の研究意欲をそそったことは間違いないだろう。18世紀においては、異国の地の爬虫類や両生類の標本はきわめてまれであり、ほとんどの研究者は標本のコレクションを見ることもままならなかった。しかし、シーバの『シソーラス』のイラストはきわめて詳細に描かれていたので、初期の分類学者は標本の現物がなくても、『シソーラス』のイラストを引用して新種を紹介していた。

 ヨハン・フリードリッヒ・グメリンはリネアスの後を継いで『自然体系』の第13版(1788年)を出版した。この本のなかにColuber Sebae(後のPython sebae)の解説が含まれており、これが学術名を与えられた二番目のパイソンとなった。グメリンはこのパイソンを命名するにあたって、リネアスが定めた基本法則を適用しなかった。グメリンはホロタイプを指定するのではなく、シーバの『シソーラス』第2巻に収録されていたアフリカン・パイソンのイラストをもとに、シーバに対する敬意を表して命名したのだ。

 このPython [Coluber] sebaeの場合のように、特定の標本をホロタイプとして指定することなく、二つ以上の標本(あるいはそのイラスト)をもとにして学術名を決定した場合、そうした標本は“シンタイプ(等価基準標本)”と呼ばれている。

 その後、数多くのパイソンがヨーロッパの分類学者の注目を集めるようになった。シュナイダーはホロタイプの標本にもとづいてBoa amethystinus(現在のMorelia amethistina)の定義をしたが、同じ本の数ページ後では、シーバの『シソーラス』の二つのイラストにもとづいてBoa reticulata(現在のPython reticulatus)の定義をおこなっている(1801年)。

 英国博物館のジョージ・ショウがシーバの『シソーラス』第1巻と第2巻にあるイラストをシンタイプとして指定して、Boa regia(現在のPython regius)の説明をおこなった(1802年)のも同じことだと言えよう。その結果、ボールパイソン(Python [Boa] regius)の学術名はホロタイプも持たず、地域特性も持たないことになってしまった。

 もちろん、19世紀初頭には、これらの種はパイソンと呼ばれていたわけではない。当時はまだパイソンという言葉が使われていなかったからだ。ショウの本が出版された翌年(1803年)、ダウディンが『An Account of Indian Serpents』(1796年、パトリック・ラッセル著)に収録されている二つのイラストにもとづいてPython boraの説明をおこなった。実際には、その二つのイラストはインディアン・パイソン(Python molurus)のものであり、リネアスが最初に命名してから45年の間に合計8回も違う名前をつけられたことのある種だった。しかし、文献のなかでPythonという属名が使われたのは、これが最初である。P. boraというのは正式な名称ではないが、Pythonは属名として現在でも受け入れられるようになった。

 boraではなくmolurusという種名が使われるようになった事情、あるいは、1758〜1803年の間にインディアン・パイソンに与えられた8個もの名称が使われなくなった事情には、分類学上の“優先順位の法則”が関係している。molurusという種名がその後の名称よりも優先された理由は、それが一番最初に文献のなかに登場したからである。その後に登場した名称は“シノニム(異名)”と呼ばれ、それらはmolurusの同意語として扱われる。ボールパイソンもまた、グレイによってPython Belliiと記述されたが(1849年)、これは現在ではPython regiusのシノニムと見なされている。

 フィジンガーはパイソンを他のヘビと明確に区別してPythonoidea科に分類した(1826年)。ボウレンジャーはBoidae科の亜科Pythoninaeに分類した(1893年)。クルーゲはパイソンを科に格上げしてPythonidae科に分類した。この本を書いている時点では、多くの分類学者がパイソン(Aspidites, Antaresia, Bothrochilus, Leiopython, Liasis, Apodora, Morelia, Python属を含む)を単一系統のPythonidae科としてとらえている。

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